ハイデガーと荘子 その1。もう、半年以上「荘子と進化論」をやっておりますが、参照:荘子と進化論 その1。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200903170000/ 今回は、かなりの変り種。荘子と マルティン・ハイデガーについて。 20世紀を代表する哲学者、ハイデガーが、荘子と似たようなことを言っているわけです。 >マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも。現象学の手法を用い、存在論を展開した。また、後の実存主義などに大きな影響を与えた。 もう、説明の必要もないほど有名な人ですよね。 参照:Wikipedia マルティン・ハイデッガー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC 「火の鳥 復活編」とか、「マトリックス」とか押井守監督「攻殻機動隊」とかで、機械と人間の関係について考えているときに、頭に引っかかるのはデカルトの、人間機械論です。 ・・・ま、細かい話は置いといて、荘子の「機心」とか「万物斉同」とか、同じ主題に対して、デカルトと荘子って、いちいち違うんですよ。で、特に「人間と機械」に関して、荘子に近い発想でデカルトを批判している西洋人はいやがらねえのか・・・考えてみると、ハイデガーがそうじゃねえかと、そして、学生時代に挫折した「存在と時間」を読み返したわけです。 >この作品は20世紀哲学の生んだ最も衝撃的な作品として大きな影響力をもちつづけており、それ以降の哲学の潮流の多くが『存在と時間』をその思想的源泉の一つとしてもっている。実存主義や構造主義、ポスト構造主義など、その影響の及んだ範囲の広さは測り知れない。(Wikipedia 存在と時間 より)・・らしいですよ。 ・・・笑いましたね。大笑いですよ。 ハイデガー曰く、 >なにを認識し、なにを言明するにしても、存在者にむかってどのようにふるまい、また自己自身にどのように関わり合うにしても、そのすべてにおいて「存在(=ある)Sein」という言葉がなんらかの仕方で用いられており、そしてこの言葉はそこで「わけもなく」了解されている。「空が青い(青くある)」、「わたしは嬉しい(嬉しくある)」というようなことを聞いて、だれでもその「ある(=存在する)」がわかる。 荘子曰く、 「天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。」 →「空が青々としているのは、本当の空の色だろうか?それとも遥かに遠く離れているからそう見えるだけではないだろうか?」(「荘子」逍遥遊第一) ハイデガー曰く、 >「に・あること」とは、いったい何でしょう。こういった表現を私たちはさしあたり「世の中に」(に・あること)と補って、この<内・存在>を「なにかの内に在る」と解する気持ちがあります。こういう術語では、たとえばコップの「なかの」水とか、箪笥の「なかの」衣服とか言うように、何かものの「なかに」あるものの在り方を意味します。私たちはこの「なかに」でもって、空間の「なかに」拡がっている二つのもの、この空間におけるそれぞれの位置に関してのお互いの存在関係をいうのです。水とコップ、衣服と箪笥は、、共に同じ仕方で、空間の「なかで」ひとつの位置「に」あります。この存在関係が拡張されると、たとえば講堂のなかの椅子、大学の中の講堂、都市の中の大学などから、ついには「宇宙における」椅子にまで及びます。そのように互いに「なかに」あることが規定されうるこれらのものは、世界の「内部に」出現する事物として、目に前にあるものの「なかに」目の前にあること。それから一定の位置の関係の意味で、同じありかたをもった或ものとともに、ともどものめのまえにあることとは、私たちがカテゴリー的であると名づけている存在論的性格であって、現存的でない在り方の事物に属しているわけです。(岩波文庫「存在と時間」より 桑木務訳) 荘子曰く、 「物無非彼、物無非是。自彼則不見、自知則知之。故曰、彼出於是、是亦因彼、彼是方生之説也。亦彼也、彼亦是也、彼亦一是非、此亦一是非、果且有彼是乎哉、果且無彼是乎哉、彼是莫得其偶、謂之道枢、枢始得其環中、以応無窮、是亦一無窮、非亦一無窮也」(荘子 斉物論第二) →物に「彼(あれ)」でないものはなく、物が「是(これ)」でないものもない。「彼(あれ)」であるとすると見えないものも「是(これ)」であるとすると見えてくる。だから恵子は言った。『「彼(あれ)」という概念は「是(これ)」という概念から生じて「是(これ)」という概念も「彼(あれ)」という概念から生じ、(すなわち「あれ」と「これ」、「我」と「彼」という概念は相対化された中で)双方が並存している。「是(これ)」もまた「彼(あれ)」であり、「彼」もまた「是」である。その「あれ」と「これ」の極限ものを「道枢」という。枢とは、扉の回転の真ん中にある一本の柱のこと、つまり、是非(扉の開閉、右回りと左回り)の判断の真ん中にあるもので、「是」もまたひとつの無限の世界にあり、「かれ」もまた無限の世界のなかにある。 参照:当ブログ 荘子と進化論 その2.5。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200904040000/ 是と彼の差、是と非の別から、胡蝶の夢にいたり、そこで初めて「万物斉同」の境地へとたどり着く、その最初の部分ですよ。荘子は、デカルトの言う「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」とは簡単には行きません。物が物であることの解釈と、人間の知覚の不確かさから始まる理性や知の不完全さ、言葉のあいまいさ、そして、夢に代表される無意識の世界を感じて、宇宙の中の自我として「万物は斉しく同じ」という結論に達するわけで・・ むしろ、彼のほうがよっぽど素直に荘子の心を歌っていますよ。 蝶ではなくてセイウチだけどね(笑)。 参照:YouTube Beatles - I'm the Walrus http://www.youtube.com/watch?v=Zx3cwoWC73A&feature=related "I am he as you are he as you are me and we are all together. See how they run like pigs from a gun, see how they fly. I'm crying." 『君や蝶 我や荘子が 夢心』 芭蕉 ハイデガー曰く、 >「『存在』は『最も普遍的な』概念である。」 >「『存在』という概念は定義できない。」 荘子曰く。 「道不可聞、聞而非也。道不可見、見而非也。道不可言、言而非也。知形形之不形乎?道不當名。」無始曰「有問道而應之者、不知道也。雖問道者、亦未聞道。道無問、問無應。」(「荘子」知北遊第二十二) →「道(Tao)とは耳で聞くことのできないもので、聞いてしまったものはすでに道ではない。道は目で見ることのできないもので、見てしまったものはすでに道ではない。道はまた、言葉に言い表すことのできないもので、言葉に表してしまうとすでにそれは道ではない。万物に形を与えながらそれ自身は形のないものをどう知覚できるのか?道に当たる名前などない。」 ハイデガー曰く、 >ひとはここでもまた見回しにとってまだ発見されていない手もとにあるものの道具性格を、たんなる事物性として、つまりどうやら目の前にあるものの把捉にとって、あらかじめ与えられているたんなる事物性だと、解釈してはならないのです。 せんがいさん曰く、 「これ食って、茶でも飲め」。 まぁ、いろいろあるんですけどね、ハイデガーはむちゃくちゃ自分で造語を作っているんですけど、「存在と時間」最後のほうに、人間が自分の死を自覚し、直視することを死への先駆的決意(覚悟)(Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode)というのを言ってます。なんでも、「死への自覚」において本来的存在たろうとする「決意」とかなんとか、これが重要らしいですよ。 一休宗純曰く、 「この世に、この髑髏ほどめでたいものはない。ご用心、ご用心。」 荘子曰く、 『夫れ大塊は、我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり』(「荘子」太宗師篇) → 天地は、私を大地に乗せるために肉体を与え、私を働かせるために生命を与え、私が永遠に働けぬよう老いを与え、私を安息にするよう死を与える。すなわち、生きることを大切にするということは、死を大切にするということである。 参照:同 その7。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200908140000/ おそらく、これと、秋水篇にある武人の覚悟の話からじゃないかと思われます。 ・・・はっきり言うと、20世紀哲学の最大の発見とやらは、荘子のパクリでしょ? 日本の学者様がたはいったい何を考えていたんでしょうね? ほかにもいろいろ見つけましたが、それは次回。 ♪包帯のような嘘を見破ることで~学者は世間を見たような気になる♪ 今日はこの辺で。 |